TOP<< 前のページに戻る  
 第5回 (番外編)「権現堂」という地名の由来とは?

●巡礼供養塔に幸手商工会の名前が…

 権現堂といえば、桜の開花時期には毎年50万人以上の観光客が訪れる幸手を代表する観光地ですが、私たち市民でも権現堂にまつわる知らないことがたくさんあります。例えば、巡礼供養塔に幸手商工会の名前が刻まれていることを知っていましたか? 今回は「柳の会」代表 柳田 恭三さん、前市史編さん室長 浜野 一重さんの御協力により知られざる権現堂の歴史をお伝えします。
> > 権現堂の地図を見る
「柳の会」代表 柳田 恭三さん
「柳の会」のホームページ:
http://www6.ocn.ne.jp/~kamaboko/yanagi/

権現堂桜堤
1.地名の由来

 「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」(江戸時代後期、幕府が編纂した地誌)の【権現堂村】の項に、次のようにあります。

「村内に熊野・若宮・白山の権現(ごんげん)を合祀(ごうし)せし旧社あれば、この村名起これり」
(訳)「村の中に「熊野権現社」「若宮権現社」「白山権現社」という三つの神社を一緒にまつった旧い神社があったので、「権現堂村」という名になった。」
 また、【熊野若宮白山権現合社】の項に」
「村の鎮守(ちんじゅ)なり、正智院持、この社、古(いにしえ)大社にて村名の起こりしと云も此(
この)権現三社なり」
(訳)「村の鎮守で、昔は大きな神社だった。「権現堂」という村名の起こりも、この「権現三社」である。」

 つまり、このように、村の中に「三つの権現」があったことから「権現堂村」の名前が付けられた、と考えられています。この社の創建は、天正年間(1573〜92)と伝えられていますが、はっきりとしたことは分かっていません。
 江戸時代初期には「権現堂村」という村名が確実にあったことが分かります。

《参考》
古文書に見られる最も古い「権現堂村」
慶長20年(1615)「下総国猿嶋郡幸手内権現堂村御見地帳(しもうさのくにさしまぐんさってのうちごんげんどうむらごけんちちょう)」(巻島家文書)

2.その他の「権現堂」

(1)「権現堂川」と「権現堂堤」
ア.  「権現堂川」
a. その成立についてはさまざまな説が唱えられていますが、江戸時代初期から断続的に行われた、いわゆる「利根川の東遷」(江戸に流れていた利根川=現在の古利根川の流路=を現在と同じく銚子に流すために行われた河川改修工事のこと)の過程で改修が進められ、その流路が確定していったと考えられます。
  b. 権現堂川は、先の『新編武蔵風土記稿』の「権現堂村」の項では「利根川」と記され、さらに「此辺にては権現堂川ともいう」と説明されています。このことは、地元では「権現堂川」と呼んでいる河川が、江戸幕府の見解では「利根川」と認識されていたことを示すもので、これにより権現堂川の位置付けができます。
つまり、この権現堂川という河川は、板東太郎・利根川の一部だったのです。
  イ. 権現堂堤(江戸時代)
  a. 江戸時代には「権現堂川通り水除堤(みずよけつつみ)」と呼ばれていました。
この堤は、戦国時代、天正4年(1576)に初めて築かれたとされています。以後、たびたび改修が加えられ、現在見られるような規模になったと考えられます。
  b. 権現堂堤は、「御府内御囲堤(ごふないおかこいつつみ)」といわれたこともあります。「御府内」とは江戸のことを示す言葉ですので、言い換えれば「権現堂川の大水から、江戸を守っている堤」となります。つまり、幸手の人々は、大切な堤が切れないようにと、日頃から管理を心掛け、大雨で権現堂川が増水すれば件名で水防活動をしていたのです。
  c. けれども、権現堂堤は何度か大規模な決壊をしています。
中でも、享和2年(1802)の堤の決壊であふれ出した濁流は、幸手の村々を呑み込みながら、遠く江戸にまで達し、まれ野見る大規模な大水となりました。
人柱として犠牲となった「巡礼母子」の悲しいお話しは、この時行われた堤防工事での出来事といわれています。現在、「巡礼曲輪」と呼ばれる決壊地点の堤上に、母子の巡礼を供養する碑が建てられています。
  d.

「幸手音頭」の一節に次のような歌詞があります。

♪ハアーエ 昔しゃお江戸を 守った土手も
 今じゃ桜のネー
 アレサ 桜の花の山 ソレ

「桜の花の山」とまで歌われるようになった、その後の権現堂堤の変遷を見てみましょう。

   

3.権現堂堤(明治時代〜現代)

  a.

行幸(みゆき)堤の新築
明治時代のはじめ、高須賀〜外国府間に至る新しい堤防工事が行われました。
その完成後、この新堤を明治天皇が閲覧されました。
これを記念して「行幸堤」の名が賜られ、明治の元勲、岩倉具視の題額がある優美な姿の「行幸堤之碑」が、堤の上に建てられています。

 
  b. 中川改修工事
大正6年に中川改修工事が始まりました。
権現堂川は、大正15年に栗橋流頭が締め切られ、次いで昭和2年、西関宿地先が締め切られ、利根川から切り離されてしまいました。
権現堂川が廃止されるとともに、権現堂堤も治水機能の重要性が薄れ、管理する者もなく、次第に荒れ果てていきます。
 
  c. 行幸堤史跡保存会
明治天皇の聖蹟であり、地域を長い間水害から守ってくれた権現堂堤をこのままのにしてはおけない、保存して大切に残していこう、という権現堂堤保存の機運が高まっていきます。
大正9年頃、「行幸堤史跡保存会」が組織され、栗橋町から幸手町を経て豊岡村西関宿に至る長大な堤に桜を植樹して関東随一の桜の名勝にしよう、という計画が進みはじめ、堤に桜が植えられていきます。
  d. その後、幸手町の商工会が中心となって「巡礼供養塔」(昭和8年)が、次いで、権現堂川用水路普通水利組合により「巡礼供養之碑」(昭和10年)が堤の上に建てられます。水害とともに歩んできた幸手の苦難と戦いとの歴史を、後世の人々に伝え残そうという気持ちが表わされているようです。
  e. 太平洋戦争の時代、権現堂の桜は伐採されてしまいました。
現在の桜は、戦後、昭和24年に再び植樹されたものです。
(2) 権現堂河岸
  a. 「権現堂河岸」の名前は、『新編武蔵風土記稿』の権現堂の村の項では「すでに慶長4年(1599)の定書のなかに記されていた」とあることから、とても歴史ある河岸であったことが知られています。
  b. 江戸時代後期には、河岸問屋が6軒あり、9艘の船が置かれ、明治時代には、河岸問屋6軒で高瀬船・積荷船あわせて35艘が置かれていたといいます。
  c. このように権現堂河岸は、古くから舟運(しゅううん)に利用されていました。扱った荷物のなかでも年貢米はとくに重要な荷物で、幸手領をはじめ百間領・騎西領・岩付領・菖蒲領・羽生領・川辺領あわせて7か領におよぶ広大な地域の年貢米が、この権現堂河岸から船積みされ、江戸へと運ばれていきました。現代風にいえば大規模流通センターとして、江戸時代から近代に至るまでの物流を担っていたといえます。
参考/市史編さん室作成資料(20000516)

● 第1回 幸手の『横丁鉄道』

● 第2回 明治の元勲が宿泊された由緒ある旅館

● 第3回(番外編) 商工会は鉄道を誘致した?!
● 第4回 日光道中幸手宿の銘菓菓子店『大塚屋』とは!?
● 第5回 (番外編)「権現堂」という地名の由来とは?
● 第6回(番外編)NHK「生中継 ふるさと一番」にて放映!
● 第7回 幸手に狩野派の絵師がいた!
● 第8回(番外編)今でも残る幸手宿の町家は『味噌屋』だった!?
● 第9回 江戸時代からある幸手の和スイーツとは?!
ページTOPへ

TOPトピックスTMO幸手とは?事業についてまちづくりグループの紹介一店逸財スクールネット
幸手市幸手市観光協会幸手市商工会商工会推奨品視察・お問合せリンクサイトマップ

■幸手市商工会 〒340-0114 埼玉県幸手市東3-8-3 TEL. 0480-43-3830 FAX.0480-43-3883
Town Management Organization in Satte City.
TMO幸手

Copyright 2005-2006,TMO SATTE.All Rights Reserved.